kaitoの日記

自分らしく行こう!

時代が違えば、わたしも死刑囚になっていたんだろうな。堀川惠子『教誨師』の感想。

いま読んでる『教誨師』という本が、めっちゃおもしろい。お寺にやってきた地域の方々に、お坊さんが仏様の教えを説法するシーンがあって、そこで解説される「悪人正機説」には、人として大切にしたい教えが詰まっていた。

悪人正機説とは、昔「親鸞」という偉いお坊さんが広めた教えです。

悪人正機説には「世の中、善人が救われるのであるから、悪人であればなおさらだ」という逆説的なフレーズが出てくる。「悪人が救われるのだから、善人であればなおさらだ」というのが通常の思考だが、それとは正反対の言い回しだ。

「悪人」とは何なのだろうか? 説法はこのように続く。

世の中を「善い人」と「悪い人」で分けたとしましょう。そのとき、ほとんどの人は自分を「善い人」だと無意識にも考えるはず。そして他人を「悪い人」とする。つまり、「悪」は常に他人事だと言える。たしかに、自分は盗んだり殺したりしていないから、善人だというのは当然だ、という考えはある意味正しい。

でも、自分は本当に「善い人」なんでしょうか?本当に?

たとえば他人の成功をみて、ドロドロとした妬みが渦巻いていないか?あるいは、あいつは無能な人を蔑む気持ちが湧いてこないか?または、軽い気持ちで吐いた言葉が、他人に苦しみを与えていないと言い切れるか?

つまり、自分のことを「善い人だ」と思っているひとは、実は自分も真理に背くような罪を犯しているのに、反省するだけの教養に欠けている。ちょっと言葉を悪く言うと、私たちはみんな「偽善者」ではないか?

ということを問いかけてきます。

自分は善人だと思い上がっている偽善者が救われるのであれば、自分の内なる悪を自覚して苦しんでいる人間は、なおのこと救われるべきなのではないか?

これってめっちゃロックだと思います。

要は「刑務所にいる死刑囚よりも、善人面しているお前さんたちのほうが、よっぽど悪人だよ」と言ってるわけです。

・・・

いやいや、過激だなぁと僕は思っていましたが、本を読んだ今は「そうでもなんだろうな」と思い直しました。

教誨師とは、死刑囚の心の支えとなり、死刑が執行される瞬間まで立ち会う人たちのことです。当然この本にも、主人公が実際に救おうとした死刑囚の話がバンバン出てきます。

僕たちが死刑囚に抱くイメージは荒っぽい・怖い・気が強いといったものですが、主人公が対峙した死刑囚はみな、気が弱い・優しい・学がない、といったパーソナリティをもっていたようです。

「死刑囚は、気が弱い人が多かった」という下りは、僕にとってちょっと衝撃的でした。どちらかというと自分も気が弱いタイプだからです。

また、学がない人も多かったというのも印象的でした。僕だって、時代や生まれが違っていたら、学がない人間だったはずだろうから。

時代が違って、生まれも違っていたら、自分も人を殺して牢屋に投獄されていたかもしれない。もしかしたら死刑囚となって絞首刑に処されていたかもしれない。そう思うと、死刑囚って、実は自分とほとんど違いがない。

たしかに死刑に処される人は、それだけの悪事を働いています。残虐な殺人をしたんだから、遺族の気持ちを考えれば、死んでもらったほうがマシだ!というのも確かに正しい。

でもさ、だからといって「悪事を働いたんだから、さっさと死刑にしろ!」なんて言えない。時代は生まれが違ったら、何かから逃げるために悪事を働いたのだとしたら。ちょっと世界線がちがったら、自分も罪を犯していたかもしれないわけです。

そもそも、そんなに簡単に人を殺せるほど、人って偉いんですかね?

・・・

悪人正機説とは実は自分の内面に向き合う大切さを諭す考え方だと著者は言います。

人間は弱い。人との出会いや置かれた環境によって、善人にもなれば悪人にもなる。だから、まずは自分の中にある「悪」、つまり目に見えぬ心の闇をしっかり見据えることこそ肝要なのだ。

・・・ という一節を紹介。

自分は常に正義側に立っていると思ってしまうもの。僕もそう。でも、そう思ったときこそ、実は道を外してしまっているだろう。人生の大切な教えとして心に留めておきたい。