kaitoの日記

自分らしく行こう!

「心」は自分でコントロールできないし、無意識が勝手に加工して出力した結果でしかない。

休日は、とりとめもないことを考えています。

朝はいつも散歩に出かけるのですが、歩きながら何かお題を考えます。今日は川代さんのVoicyを聴きながら、心と意識について考えました。川代さんは、感情の言語化能力がものすごく高い。聞きながら「それあるわ〜」「言語化能力高いな〜」と感想を声に出しながら歩きました。後ろに誰もいないことの確認は怠りません。

散歩中に考えたことは、歩きながらDraftsにメモします。家に帰るとDraftsを清書したり、GoodNotesで考えを図解します。誰にも見せることのないメモが、私のiPadには大量に眠っています。今日は、GoodNotesに心・意識・無意識の考察を残しました。我ながら、面白い考察ができたなとしたり顔です。考え事をしていると、1〜2時間はあっという間に過ぎていきます。

今日は、心と意識について考えた

すでに書きましたが、今日は散歩中に「心」や「意識」について考えを膨らませ、帰ってからノートにメモをとりました。いつもはこれをまとめてからブログにアウトプットしたりするのですが、ほぼまとまってない状態で掲載しても面白いかもと思って、荒っぽい状態で載せてみようと思います。

・意識されたものだけを「心」と呼んでいるよね

「心」ってなんだろう?「意識」と一緒なんじゃないか?

「嫉妬に狂う自分。心の中にモンスターがいる」と川代さんが話していたことから着想を得たイラスト。 私たちは自分の心をもっと穏やかに、平安に満ちたものにしたいと願っていますが、現実は負の感情に支配されます。でも「心」ってなんだろう?「心」を別の言葉で表現したら、なんだろう?ふと、私たちは「意識されたもの」だけを心と表現しているのではないか。「無意識」を表現する言葉を持っていないのではないか、と考えました。

・無意識のカタチは人によって違う

無意識のカタチが見えたとしたら?きっと人それぞれなんじゃないか

「心」が人によって違うように、「無意識の形」も人によって違うのでしょう。一説には、意識は1割にすぎず、無意識が9割を占めているといいます。海水に浮かぶ氷山に例えられるように、目に見えている意識はほんの一部で、見えない水の中に、広大な無意識領域が広がっています。きっと、見えない無意識も、三角だったり丸だったり、トゲトゲしていたり、螺旋状になっていたり。人によって形や大きさは全然違うのではないでしょうか。

・心を責めてもしょうがない。結果にすぎないのだから。

「無意識」が原因で、「心」は結果にすぎないのでは

無意識の形によって、意識も変わる。つまり、心の平穏を左右するのは無意識であり、心が荒れ狂ってしまったら、これは無意識のせいと言えるでしょう。もはや、無意識が「原因」で、意識が「結果」と言えるのかもしれません。そうすると、嫉妬深い自分の心を責めるのは、お門違いと言えます。なぜなら、心は結果にすぎず、原因は無意識の形や、処理の仕方にあるのだから。

・愛でさえも「結果」と言えるのではないか

心を変えたいなら、インプットするものを変えよう

みたり、聞いたり、触れたりといった外部刺激。無意識がこれを処理し、心として嫉妬・虚栄・怒り・愛情などをアウトプットする。「愛情」さえも、もはや結果であると言えるのではないか。愛情深い人がいるのだとすれば、前提として、本人の時間的余裕・金銭的余裕があり、同じ外部刺激を受けても、怒りとしてアウトプットされず、愛情としてアウトプットされるのではないでしょうか。(こう書くと身も蓋もないですが)

終わりに

休日は、こう言うしょうもないことを考えています。だいたい朝に散歩しながら何かしら着想を浮かべ、家に帰ってからDraftsを書き、その後喫茶店に行って、3〜4時間ぼーっとしたり考えをまとめたりします。最近、Draftsのメモにタグ付けした話を書きましたが、あれもこのルーチンの中にある「喫茶店でぼーっとする時間」で済ませた作業になります。こんなに取り止めもないことを考えてなんになるんだと言う気もしますが、僕にとってはこれが趣味なのです。他人に説明するのが難しい。

メモには必ずタグをつけましょう。タグの豊富さが、思索の豊富さです。 kaito87.hatenablog.com

川代さんは、感情の言語化能力が高くて尊敬する kaito87.hatenablog.com

川代さんの本はおすすめです。