kaitoの日記

自分らしく行こう!

やむを得ず見捨てられた命。違いはどこにあるのか。

先日、世界で2番目に高い山「K2」を登頂した登山家が炎上した。記録のために、救えるはずだった隊員の命を見捨てた疑惑が出たのだ。

登山は過酷だ。山では体力のないものから死んでいく。パーティーで山に登るときは、やむを得ず、隊員を見捨てていかなければならないこともあるだろう。強いものしか生き残れない環境だ。

では8,000m級の山岳ではなく、平時の我々の社会ではどうだろうか。場所は違えど「弱いものから死んでいく」という原理は一緒だと思われる。障害者、認知症患者など、社会福祉の対象になる人は「弱い人」だ。やむを得ず、彼らを見捨てなければならないこともあるだろう。

障害をもつ子供を親が殺してしまう、という事件はこれまでも何度か起きている。2014年11月には、3歳の息子を母親が浴槽に沈めて殺した。息子には自閉スペクトラム症の疑いがあった。

現在は出生前診断がひろがっていて、障害の可能性ありと診断されたら9割は子どもを堕ろす決断をするそうだ。自分には障害のある子を育てることはできない。その決断は、K2の登山家がとった行動に似たものを感じる。現実社会もヒマラヤのように、弱きものが死んでいく世界なのかもしれない。やむを得ず、見捨てなければならないこともあるだろう。

しかし私の中では腑に落ちていないことがある。見捨てられた隊員と、見捨てられた子どもは、どうもおなじだとは思えない。直接手を下したかどうか、という違いももちろんある。しかし、それ以上の大きな違いが、この2つの事例にはある気がする。うまく言葉にはできないが。