kaitoの日記

自分らしく行こう!

私はご先祖様を信じているし、神様も信じている

私は無宗教…ではない。

「宗教は?」への回答は「強いて言うなら仏教徒です」だけど

「何か信じている?」への回答は、一言ではまとめられない。

そういう感覚を、文章でまとめて残しておきたくなった。

結論から書くと

  • 信じる宗教はないが、信仰はある。神様とご先祖様を信じている。
  • 特に「神様」は、他の人よりも強く信じている気がする。

 

沖縄県民としての「普通」の信仰

まずは、一般的な「無宗教な日本人」のイメージと、自分とを比較してみる。

同じところ、違うところはなんだろうか?

リストアップしてみると、私が沖縄出身ということもあり、沖縄と本土の風習の一般的な違いが見てきた。

リストアップした「同じ」点
  • お正月には、神社にお参りする
  • 葬式は仏教式
  • クリスマスをお祝いする
リストアップした「違う」点
  • 帰省したら、毎日仏壇に線香をあげ、手を合わせる
  • 仏壇が、一家にとって大切なシンボルになっている
  • 仏壇を中心に、定期的に親戚があつまる

私の家には仏壇がある。仏壇を中心に親戚があつまる風習が沖縄にはある。

いずれ仏壇を継ぐものとして、親からは仏壇の話を何度も聞いた。

 

お盆になったら、年末年始になったら、

おじいちゃんやおばあちゃんが死者の世界から帰ってくる。

手を合わせれば、死者の世界にご報告できる。

そういう感覚をもっている。

 

死後の世界・死者との関係性・天国と地獄について

死後の世界
  • 実際私は、死んだら天国に行くとおもっている。
  • 天国にはご先祖さん(祖父母)がいる
  • お盆や年末年始には一時的にこちらに帰ってくる。
  • 仏壇にお線香をあわせて手を合わせれば、無事でいること、元気でいてほしいことを報告できる。

…という感覚だ。

死後の世界との物理的距離は遠いけど、心理的な距離はとても近い。

 

天国
  • 天国 = 死後の世界 = 死後に生活する場所
  • 天国のイメージはめちゃ曖昧
  • 一般的な「極楽」のイメージはない
  • 神様がいるかは、わからない。そうかも知れない。
  • 天国には門がある。門番はいない。
  • 門の向こうには空間が広がり、めちゃくちゃ広い。
  • 死者は門をくぐって、たまに会いに来てくれる。

天国とは、死者が穏やかに暮らす場所、くらいのイメージだ。

死んだらみんな天国に行くのだ。極楽、とはちょっと違う。

 

地獄・輪廻転生
  • 地獄は、私の死生観の中にはない。
  • 親戚にもご先祖にも、地獄に行った人はいない
  • 自分が地獄に行くとはおもってない
  • 輪廻転生はあるかもしれない。けど、よくわからん。
  • 今の自分が幸不幸が輪廻転生の結果だとは思ってない。
  • 幸不幸は、どちらかというと、神様の思し召しだと思ってる。

…という感じだ。

地獄や輪廻転生を信じるかは、人によって違うところだろう。

 

神様
  • 神様はいる
  • どこにいるのかわからない
  • 遠くで自分を見守ってくれている
  • なんだかんだ幸運に導いてくれる
  • 不運が起こった瞬間は意味がわからない。
  • 長い目でみて、不運の意味はようやくわかる

たぶんこの「神様がいると思っている」という感覚は、たぶん他の人よりは強いものを持っていると思う。母がそういう系だったことが影響してそうだ。

 

ちなみにご先祖さまとの違いは

  • ご先祖さまは遠くでみてる。神様は働きかけてくる。
  • ご先祖さまには報告できる。神様には報告できない。

神様とは、お天道様の感覚にちかいかもしれない。

 

琉球神道
  • 代表的なシンボルは、斎場御嶽やユタ
  • どちらも、ピンと来てない。
  • ユタは身近にいないので、そういう人もいるんだなの感覚
  • 斎場御嶽は、壊されても多分何も思わない(悲しいなくらい)

琉球神道は、知識だけの世界。自分とは関係ない。

 

まとめ。私が信じるものとは

多くの日本人・沖縄県民と共通するところは多いだろう。

ただし、全く同じ死生観をもってる人は、たぶんいない。

それは、私の死生観が、沖縄という土地、両親の教え、本の影響、などから重層的に生成されたものだからだろうか。

 

改めて「あなたは何を信じますか?」という問いには、こう答えたい

  • ご先祖さまの存在を信じています。ご先祖さまは、私を遠くで見守ってくれており、手を合わせて報告すると、いつでもそれを聞いてくれる優しい存在です。私は、よい人生を送って、ご先祖さまを安心させたいと思っています。
  • 神様の存在を信じています。不運な出来事には、神様が働きかけてきた結果であり、何の意味があるかはわからない。でもきっと、後からその意味がわかると思っています。だから私は、神様とは自分を幸せに導いてくれる存在だと思っています

 

勉強になったエントリ

ピクスタ社CTOの後藤さんのブログ。

ソフトウェアエンジニアリングの改善指標を経営指標のどこと紐づけ、ボードとのコミュニケーションをやりやすくなるか、という観点で書かれた意欲ポスト。

正直まじで理解できないところばかりだが、すこしずつ読み込んで、理解できるようになりたい。

沖縄の実家はどうするか、仏壇をどうするか

私の実家は沖縄にある。

仏壇は、長男の私が継ぐことになる。

父親の年齢が70歳を超えた。

仏壇をどう継ぐか、考えなくてはならない。

 

父からは、こう言われている

仏壇は、死んだ人のためにあるのではない。

生きている人のためにあるものだ

だから、どう扱うかは私と私の妻で決めてくれ

ただし、ご先祖を大切にするという魂だけはちゃんと引き継いでほしい

 

ご先祖を大切にする、かぁ…

 

二十歳になるまえに上京した。

沖縄の風習をあまり知らない。

どれほどちゃんと継承できるのか

正直ぜんぜん自信がない。

 

とはいえ、いずれ決めねばならない。

・実家は残すのか

・仏壇はどうするのか

 

難しい問題である。

とはいえ、私なりの現時点での結論はある

実家は残したい

沖縄の風土・雰囲気が好きだ。

だから、何も制約がないのだとすれば、実家は残したい。

 

実際には

・実家のメンテナンス代

・実家への交通費・滞在費

・税金系

がかかってくるだろう。

この負担増は、正直痛い。

 

しかし、実家というかけがえのないモノ

自分のために残しておきたい

だから、足りなくなったら稼ぐなりして頑張りたい

 

仏壇は持っていきたい

私は先祖を身近に感じていたいと思っている

今は人的ネットワークが東京にあるので、

仏壇が沖縄にあるのは、私の望みに反する

だから仏壇はもっていくことにする

 

お墓はどうでもいい

先祖様とつながるのは仏壇だ

逆にお墓は、私のなかでは単なるシンボルでしかない

よってそのままになっても構わない。

だから沖縄においていこうと思う

 

 

知識の溺れに注意:毒を避けて本当の学びへ

毒化するコンテンツに、どう対応するか

本を含めた大半のコンテンツは、ゴミか毒だ。

ゴミは役に立たないのでわかりやすいとして、問題は毒の方だ。

毒はうまいので、ずっと食べ続けてしまう。役に立つ・気持ちいい・頭が良くなった気がする。頭がグルグルして、次から次へと情報収集を続けてしまう。ちょうど、お腹が空いてスナックを食べるが、いつまでも満たされない感じに似ている。

たとえば世界情勢や日本政治を勉強するのはいいこと、だとされているが、本当か。中途半端にわかりやすく、知的好奇心を刺激するコンテンツは、むしろ毒ではないか。

わかった気になって、学びを止め、他者にマウントを取り、口だけ出して行動しない酩酊おじさんと化してないか。

どうやったら毒を避け、本当の精神的な健康を取り戻せるのか。

 

知性は磨かれているか?が点検ポイント

私たちが学ぶのは知性を磨くためだ。知性を磨く目的は、大きく次の4つである。

  1. 他者のパラダイムで、自分を見つめるため
  2. 大局観(歴史観・世界観・死生観)で、自分をみるため
  3. 論理的・効果的に伝えて人を動かすため
  4. 目的を実現する優れた計画をたてるため

もっとザックリまとめると、要は

  1. メタ認知のため
  2. 協働・実現のため

である。

たとえば、世界情勢や日本の政治を勉強しても、それが大局観の形成につながっていなければ、それは毒でしかない。世の中に憤り絶望しても、何の意味もない。

大事なのは、自分自信をみつめる材料になっているかどうか。人生が見直されていれば、価値はあったと言えよう。

 

私の場合はどうか

YouTubeで中田さんのチャンネルを好んで見ているが、自分自身を見つめる材料になったかどうかを点検し、今後のコンテンツ選びに活かしていくことが求められる。

注意したいのは、酩酊状態で「人生が見直されているか」の問いに応えるのは難しい。ひとまず、時間を置かなければならぬ。

年末年始の暇は、私にとっての毒だった

暇は毒だ

年末年始は暇であった。

28日に仕事納め。29日と30日は、娘と家でのんびりするも、暇になっても公園しか行き先がない。31日から2日は義理の両親の家でのんびり。3日も家でのんびりだった。

ずっとのんびりしかしていない。

暇になると、本を読んだりYouTubeを見たりして、仕事をしている時には考えないようなことまで考え出す(たとえば日本政治がどうとか、人生の原理原則がどうとか)

日本の政治や人生の原則について考えるのは良いことだと考えられているが、私にとっては、頭が知的興奮でずっとグルグルしている状態で、しかも着地させる先がなく、ずっと浮足立っている状態だ。

知的興奮中は気持ちいいのだが、引いてみると"酩酊状態"に近く、他人から見ると勝手に気持ちよくなっているタダの役立たずである。

いわば知的興奮という名の”毒”にやられているのだ。

暇は毒だ。

 

知識よりも大事なこと

私自身の精神的な健康のためにも、自分が興味のあるところだけ知っておき、それ以外の世の中の動きには、なるべく無関心でいたい。

世の中に詳しくなるよりも、他人のために草一本でもむしってやるほうが尊い

そういう価値観で生きていたいし、自分の行動を律していきたい。

 

余談1:来年の対策を考える

暇の毒でやられるのは、今後も繰り返されるものだと考えると、何かしらの対策しておきたい。はたと「年末年始の旅行はどうだろう」と思いつく。

そういえば年末年始は海外に行く人が多いが、国内の実家で暇にやられるよりは、旅行でもしていたほうがよっぽど有意義である。

海外が理想だが、子どもが小さいので国内。そうなると、私の実家がある沖縄が選択肢として上がってくるが、実家に帰っては元も子もない。来年は沖縄で「旅行をする」というプランを検討してみたいと思う。

 

余談2:”毒"の正体

暇といえば、「暇と退屈の倫理学」だ。読んだことがなかったのでAmazonのレビューを探していたところ、こんなレビューを見つけて「なるほど~」となった。

私を傷つけた毒の正体は、暇そのものではなく、デフォルトモードネットワークから引き出される「痛む記憶」だったらしい。

私が本書で一番面白いと思ったのは、むしろ増補新版で追加された「傷と運命」という章でした。ここでは「なぜ人間は退屈するのか」を脳科学の知見から考えますが、脳の3つのモード(1)デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)、(2)前頭頭頂コントロールネットワーク(3)サリエンス・ネットワーク、からその理由を考えている点が非常に興味深かったです。退屈とは、DMNになったときに心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめる、という説は説得力を感じました。

暇と退屈という概念についていろいろ考えるきっかけを与えてくれる

 

スキルとは、周囲との関係性のなかに埋め込まれているもの

会社でベテランになると、みんな私の話を聞いてくれるようになる。

 

飲み会でちょっとした冗談をいっても、ちゃんとウケる。新人の時は、おもんないやつだなーと思われていたのにも関わらず。

 

それは、周囲との関係性が変わって、話を聞いてくれるようになり、それに私自身も聞いてくれることがわかっているから、冗談を言おうとなり、結果笑いが起きたのだ。

 

私のお笑いスキルがあがったわけではなく、単に年次が上がって周囲との関係性がかわっただけなのだ。

 

何が言いたいかと言うと、能力というのは、個人が保有しているものではなく、周囲との関係性の中に埋め込まれているものだ、ということ。

 

関係性が全くゼロのコミュニティに移ると、能力というのも失われる。

 

私たちは「スキル」というものを、あたかも資格と同じように、静的で固定的で客観的なものだと考える。

 

しかし実は「スキル」とは環境や関係性が変化すれば出力も変わる、極めて動的なものである。思考力と言語化力とか、そういうのも、全部、実は関係性のなかに埋め込まれているのではないだろうか。